昭和41年01月30日 夜の御理解
(出だし途中から)
神が生まれるということであって、生神の道というのはどういう道だろうかと。又その生神への、生神へ生神へとしての、その道すがらを辿らせて頂くということが、お道の信心だとこう思うのでございますけれども、その生神への道とはどう言う様な道を辿らせて頂いとればよいのかと。そんな事、皆さん考えて見られた事があるでしょうか。そげん生神様にならんでも、そしたらもう全然信心は成り立たないのです。もうね、生神様にゃなれなくても、生神への道を辿らせて頂く事がお道の信心なのですから。
ですからこの道を辿らなければ、お道の信心にはならないのです。この方だけが生神じゃないと、皆もこの様なおかげを受けられると仰っておられる。ね。生神とはここに神が生まれると言う事である。その生神への道というのはどう言う様な道なのか。朝の御祈念なんかは皆さん、あのう5時の御祈念、まぁそれこそ毅然たるものですよね。もう誰が参って来ておろうが参って来ておるまいが、もう5時にはきちっとおかげを頂く。私も御神前に、御祈念の座に就かしてもらう。
お参りしておる人達が、一緒に御祈念をさして頂くわけなんです。そすと夜の御祈念はとなると、そうではない。まぁなんとはなしに、これは、私じゃないけれどもですね、神様が「誰がまだ来とらん。あれもまだ来とらんけんで待て」と言った様なものを、いつも感じるんですね。私は。今日も9時過ぎてましてから、立とうと思うけれども、どうも立つ気持ちがしないのです。
そしたら、原さん達親子が参って来る。篠原さんが参って来る。内田さん達が親子で参って来る。それでようやく揃うた、という感じがするんですね。いかに例えば、御神前でですね、あのう、夜の御祈念なら、夜の御祈念に、神様の前で、お礼を申し上げさせて頂く時に、「ほら、誰も来んか、彼も来んか、そら皆一緒に、お礼申し上げるぞ。」と言った様な雰囲気が、もういやがうえにも出て来るんです。椛目の夜の御祈念は。皆さんもそうでしょうが。
皆さんもだから、そういう気持ちで夜の御祈念は私お仕えにならなきゃいけない。もう本当に「全教一家」と言うのはもうこう言う所から。ね。夜の御祈念にお参りする人達がまるっきり一家のように、本当に弟であり妹であり、親であり兄弟であると言った様な気持ちでです。「あらまだ今夜誰も来てないんじゃないの」と、まぁ言う様な気分。私はしかしその事は思わん。私は。私は思わないけれどもですね、神様があのう、私御祈念の座に立たして頂く、お許しを頂くとがいつもそげな感じがするんです。
ははぁ、誰が一生懸命走って来よるなさるけん、神様待っとって頂いたばいのと、言う様な感じです。その点朝の御祈念とは、もう全然雰囲気が違うですね。そういうです、例えば、有り難い、今日も皆揃てから、御祈念をさして頂きよるという気持ちで、御祈念をまぁ有り難い有り難いという気持ちでさして頂きよる。ね。ところがです。天津祝詞が済んで大祓になって、その大祓の中が、でちょっと大祓が乱れた。ちょっと途切れたような感じがした。
そうするとです、今まで私の、もう一家中でです、こうやって神様の前にお礼を申させて頂いておる、有り難さという雰囲気が、そういう心持ちが、もう私の心が乱れるんです。ね。もうそれを取り戻すためには、とっても骨が折れるのです。もうせっかくの、ほんとに神様って有り難い方だな。時間が遅なるごっちゃなか、あれが来るまでこれが来るまでと言うて待って、そしてこの御祈念を、仕えさして頂いておるんだと思ただけで、私の心はなんともなしにです、もうおかげを頂けれる心の状態にあるのです。
ところが、大祓がちょっと狂うた。もう私の心が乱れた。私の心がもうその有り難い雰囲気からなくなってしまった。とこういうことになる。そこで私は思うのです。ははぁこれはまあだ本当なもんじゃないなと私が思うのです。私生神への道を辿るということはそういうことだと思うのです。私共が有り難いな、信心を頂いている事はもったいない事だなとこう思うでしょう皆さんが。ね。
ほんとに有り難い、勿体無いと思うておりながらです、有り難いとは似ても似つかない、勿体無いとは似ても似つかないものが、私どもの心の中にあることがあるでしょうが。ね。そういう都度都度にです、私共は、私が勿体無いと言うておるのは、有り難いと言うておるのは、ほんとなものじゃないんだなと分からしてもろて、また一段と精進して行く、そういう道が生神への道だと私は思うのです。
生神の道というのは、生神の(大気?)というものは、丸いケマリのような物に「生神金光大神」と書いて、いっぱい書いて、それをころころ転がすようなものじゃと、こう誰かが言った。ね。どちらへ転がしても「生神金光大神」というものが出て来るんだということです。大祓が違おうが、誰がどういう雰囲気が生まれようが、どういう中にあっても有り難いというその境地が、金光大神、生神金光大神の境地だとするならです、はぁほんとに有り難いな。
こういう有り難い御祈念が今晩はできておるとこう思いながら、御祈念の半ばに、もう私の心が、それとは似ても似つかない心に、もう狂ておる、間違っておるというところにです、私は感じる。いやあ、これはまだ私の、ものはほんなもんじゃないなということです。ね。そのほんなもんじゃないなと、いうのも突き止めたわけですから、だからこれではいけんと次の精進に移って行く。
そういう私は精進、お道の信心でいう精進とは。ね。そこんところを目指して行くのが、生神への道だと思うのです。これは御祈念の時だけじゃないですよ。日常の中にもそうです。ね、生活の中においてです。ね。ようと考えたらおかげである事が有り難い事が分かっておるんだけれど、その事がもう腹が立っておるという時にです。私共がほんとに信心をさして頂いておって、こんなことじゃ相済まんというだけではなくて。
ほんとほんなもんじゃないなというものを、突き止めさしてもらい、それを例えば、一分ずつでも一厘ずつでもほんなものにして行こうという精進。それがよし生神という境地などということでは、まあ到達できないに致しましてもです、そういう道を辿らせて頂くという事が、有り難い私、あのお道の信心を、頂いておるものの信心の進め方でもありゃ、また頂き、あり方でもあると思うのです。どうぞそういうふうにして、生神になって行く道を精進して行くのですね。
どうぞ。